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東京地方裁判所 昭和57年(特わ)714号 判決 1984年7月20日

裁判所書記官

萩原房男

本籍

東京都台東区雷門町二丁目二一番地二

住居

同区駒形一丁目七番六号 柳恵キングハイツ六〇五号室

会社役員

島田昭次

昭和四年一〇月一〇日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、当裁判所は、検察官上田勇夫出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

一  被告人を懲役一年及び罰金一六〇〇万円に処する。

二  右罰金を完納することができないときは、金五万円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留意する。

三  この裁判の確定した日から三年間右懲役刑の執行を猶予する。

四  訴訟費用はその全部を被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、東京都台東区西浅草三丁目一五番一号において「クラブ花電車」を、同区浅草一丁目一八番一〇号において「さろん松」を営むかたわら、営利の目的をもって継続的に株式の売買を行っていたものであるが、自己の所得税を免れようと企て、売上の一部、株式の売買益を除外する等の方法により所得を秘匿したうえ、昭和五三年分の実際所得金額が一億二一四万二三四円(別紙(一)修正損益計算参照)あったのにかかわらず、同五四年三月一二日同区蔵前二丁目八番一二号所在の所轄浅草税務署において、同税務署長に対し、同五三年分の総所得金額が一〇五一万四七四八円で、これに対する所得税額が二四〇万四七〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書(昭和五七年押第一一九五号の1)を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もって不正の行為により同五三年分の正規の所得税額六一八五万八〇〇〇円と右申告額との差額五九四五万三三〇〇円(別紙(二)税額計算書参照)を免れたものである。

(証拠の標目)

「甲」及び「乙」は、検察官請求証拠目録甲及び乙の番号、「2符」は当庁昭和五七年押第一一九五号の符番号、「弁」は、弁護人請求証拠目録の番号「回」は公判回数をそれぞれ示す。

判示事実全般につき

一  被告人の第一、第一二ないし第一五、第一七ないし第二〇回の公判調書中の各供述部分

一  被告人の収税官吏に対する質問てん末書九通(乙一ないし九)及び検察官に対する供述調書三通(同一〇ないし一二)

一  証人井上弌朗(第二回)、同坂田稔(第四、第六、第七回)、同小林昌子(第一〇、第一二回)、同大藤栄治(第七ないし第九回)、同池田耕造(第一六回)、同藤井国(第一六回)、の公判調書中の各供述部分

一  坂田稔(甲64ないし75、昭和五四年八月二二日付、同月二八日付、同年九月二一日付、昭和五五年八月二三日付、同年九月一九日付のものはいずれも抄本)、島田昌子(同80)、小林昌子(同81ないし83、いずれも抄本)の収税官吏に対する各質問てん末書

一  坂田稔(甲76、77、昭和五七年二月二六日付のものは抄本)、塩崎朝博(同79)、小林昌実(同84、抄本)の検察官に対する各供述調書

一  収税官吏作成の査察官報告書二通(甲122、123)

一  浅草税務署長作成の昭和五五年一〇月四日付証明書(甲128)

一  押収してある昭和五一年分、同五二年分の所得税確定申告書各一袋(符17、19)、同各年分の所得税青色申告決算書各一袋(同18、20)

判示事実ことに過少申告の事実及び別紙(一)修正損益計算書中の各勘定科目の公表金額につき

一  押収してある昭和五三年分の所得税確定申告書一袋(符1)、同年分の所得税青色申告決算書一袋(同2)

判示事実ことに別紙(一)修正損益計算書の次の各勘定科目中の当期増減金額につき

売上(別紙(一)修正損益計算書の勘定科目の事業所得<1>、以下「事業<1>」というように表示する。)

一  収税官吏作成の売上調査書二通(甲2、3。以下調査書はいずれも収税官吏が作成したもの。)

雑収入(事業<2>)

一  雑収入調査書二通(甲4、6)

一  雑収入(交際費)調査書(甲5)

仕入(事業<4>)

一  仕入調査書二通(甲7、8)

租税公課(事業<6>)

一  租税公課調査書二通(甲9、10)

水道光熱費(事業<7>)

一  水道光熱費調査書二通(甲11、12)

旅費交通費(事業<8>)

一  旅費交通費調査書二通(甲13、14)

通信費(事業<9>)

一  通信費調査書二通(甲15、16)

新聞図書費(事業<10>)

一  新聞図書費調査書(甲17)

広告宣伝費(事業<11>)

一  広告宣伝費調査書二通(甲18、19)

交際接待費(事業<12>)

一  交際接待費(本会計)調査書(甲20)

一  交際接待費調査書(甲21)

一  交際接待費(簿外分)調査書(甲22)

保険料(事業<13>)

一  保険料調査書二通(甲23、24)

修繕費(事業<14>)

一  修繕費調査書二通(甲25、26)

消耗品費(事業<15>)

一  消耗品費調査書二通(甲27、28)

印刷費(事業<17>)

一  印刷費調査書(甲29)

組合費(事業<18>)

一  組合費調査書(甲31)

装飾費(事業<19>)

一  装飾費調査書(甲30)

募集費(事業<20>)

一  募集費調査書(甲32)

芸能費(事業<21>)

一  芸能費調査書(二通(甲33、34)

福利厚生費(事業<22>)

一  福利厚生費調査書二通(甲35、36)

給料(事業<23>)

一  給料費調査書二通(甲37、38)

支払手数料(事業<24>)

一  支払手数料調査書二通(甲39、40)

賃借料(事業<25>)

一  賃借料調査書(甲43)

地代家賃(事業<26>)

一  地代家賃調査書(甲41)

一  家賃地代調査書(甲42)

雑費(事業<27>)

一  雑費調査書二通(甲44、45)

顧問料(事業<28>)

一  顧問料調査書(甲46)

貸倒損(事業<29>)

一  さろん松売掛金の貸倒損調査書(甲47)

一  さろん松貸付金の貸倒損調査書(甲48)

青色申告控除額(事業<30>)

一  浅草税務署長作成の昭和五五年一〇月一七日付証明書(甲1)

配当収入(配当<1>)及び株式売買益(雑<1>)

一  証人斎藤日出道(第三回)、同柴田豊(第三回)の公判調書中の各供述部分

一  斎藤日出道(甲55、56、昭和五七年二月二七日付のものもは抄本)、藤木周蔵(同57)、西沢卓(同58)、加藤富夫(同59)、柴田豊(同60、抄本)、杉野精一(同61)、小林正蔵(同62)、鯨井隆(同63)の検察官に対する各供述調書

一  配当所得調査書(甲49)

一  株式売買損調査書(甲50)

一  株式売買回数、売買株数調査書(甲51)

受取利息(雑<2>)

一  受取利息(個人的貸付金)調査書(甲52)

支払利息(雑<3>)

一  支払利息調査書(甲53)

別紙(二)税額計算書中の社会保険料控除につき

一  東京料理飲食環衛業国民健康保険組合作成の国民健康保険

保険料納付証明書写(弁92)

別紙(二)税額計算書中の源泉徴収額につき

一  納付済源泉税調査書(甲54)

(争点に対する判断)

弁護人は本件公訴事実を種々争い、無罪を主張するので、主な争点について以下検討する。

第一株式の売買益等について。

一  弁護人は、本件株式は小林昌子(以下「昌子」という。)が自己の経営するさろん松の収入で購入したものであるから、その売買益は昌子に帰属すると主張する。

そこで先ず、さろん松の収入の帰属関係について検討すると、関係証拠によれば次の各事実が認められる。すなわち、被告人は昭和二一年ころから、東京都台東区浅草所在の上原長七さんが経営する飲食店において働いていたが、そのときレジ係をしていた昌子と知り合い、同三〇年ころからは同女と同棲するようになったものであり、両名は今日まで婚姻届出こそしていないものの、その社会生活は実質上夫婦と全く同一の関係にあり、昌子は社会生活下も被告人の島田姓を名乗り、被告人の妻としての地位を保ちながら現在に至っていること、ところで被告人は、右昌子と同棲を始めた昭和三〇年ころ、前記上原から同人経営にかかる飲食店の一つである「キャバレー石松」の営業も譲り受け、店名を「さろん松」と改めたうえ、新たに自己名義の営業許可を受けてその経営を始めたが、自らは主として仕入及び売掛金回収の仕事に従事するとともに、昌子には接客、ホステスの指導、売上金の管理等をさせながら経営にあたっていたこと、その後被告人は事業の拡大を図り、バー松、キャバレー花電車(以下「花電車」という。)等を開店してその経営に乗り出したが、とくに花電車は繁盛して同店の規模が年々拡大して行ったために、被告人自身その経営に専念せざるを得なくなり、他方さろん松については昌子が独りで営業に伴う諸々の管理ができるようになったことから、同女に同店の営業を任せるようになったが、右のように被告人がさろん松の営業を昌子に任せるようになった後も、同店の営業は被告人名義で行われていたものであって、被告人が昌子に対しさろん松の営業を譲渡するなどしてその経営までも任せた事実はない。ところで、被告人及び昌子らは当公判廷において、昌子が被告人とさろん松を開店するにあたっては親族から営業資金を借りて出資するなど共同経営者として関与していたものであり、また被告花電車の経営に専念するようになってからは、昌子がさろん松の営業一切をきりまわしていたものであって、同店の経営は同女があたるようになったのであるから、同店の収入は同女に帰属する旨供述するかのようであるが、さろん松の営業所得の処理、ことに所得税の確定申告に際してはさろん松及び花電車の収入とも当初より被告人の所得として処理されてきたものであり、本件査察後の昭和五四年分以降についても、さろん松の収入は被告人の所得として申告されていること、さろん松の収入は専ら昌子によって管理されていたものの、被告人あるいは花電車の運転資金に随時流用されているのみならず、さろん松の収入によって新築された家屋が被告人の所有名義で登記されていること等が認められ、これらの点を併せると、さろん松の営業に対する昌子の関与はあくまでも妻としての協力としてなされたものといわざるを得ない。

以上のとおりで、さろん松は被告人が上原から譲り受けてその経営にあたるようになり、その後花電車を開店し、さろん松の営業一切を昌子に任せるようになった後も、被告人が引きつづきその経営にあたっていたことは明らかであり、従って、その収入は被告人に帰属していたものと認められる。

ところで弁護人は、本件株式の資金源であるさろん松の収入が右のとおり被告人の所得となるとしても、本件株式の取引は昌子自身が証券会社への売買注文、銘柄の選定等一切を行っていたものであって、その売買益は同女の能力と研究によって獲得されたものであるから、同女に帰属すると主張するので検討する。

昌子が昭和三五年ころからさろん松の収入で株式を購入するようになり、その後同女は株式投資について熱心な研究を重ねるとともに投資額を拡大し、株式の取引を本格的に行うようになったこと、本件株式売買の証券会社への注文、銘柄の選定等が昌子によって行われていたことは所論のとおりである。しかしながら、関係証拠によれば、本件株式の売買は、前記のとおり婚姻届を出していないとはいっても、被告人とは二〇数年間夫婦として生活してきた昌子が、被告人の所得であるさろん松の収入を運用して行ったものであり(後述するように、昌子がさろん松から報酬ないし給与を受けていた事実はないので、同女が受領すべき報酬ないし給与が本件株式売買の資金にあてられたものと認める余地はない。)、他方被告人は昌子の健康や株によって損失を被ることを心配し、同女に株の取引をやめるように何度か忠告をしながらも、儲かっているかどうかをたずねたり、証券会社との間に多額の現金の受渡がある場合には自らこれを行うなどしてその取引に関与しており、結局昌子が被告人の計算において本件株式の売買を行うことを了解していたものと認められる。また昌子は株式の売買を始めるにあたり、証券会社の担当者に対し被告人が多忙なので自分が被告人にかわって株式取引の実際の注文や受渡を行うことを告げ、取引名義についても当初から自分の名義のほか被告人の名義を使用し、昭和五〇年ころには税理士から同女の名義で取引をしてその資金源を税務当局から追求されるとまずいことになると忠告されるや、漸次取引名義を被告人名義に変更しているものであり、また被告人は本件が発覚すると、ただちに株式売買益を自己の所得として修正申告したうえ、本件株式を売却しこれをその納税資金にあてていることが認められる。更に被告人は、収税官吏に対する各質問てん末書及び検察官に対する各供述調書において、本件株式売買は、被告人が自らの意思と計算で行い、その収益もすべて被告人自身に帰属するものであることを認めていたが、当公判廷において、右捜査段階における供述を争い、右供述は妻昌子をかばうために真実と異る供述をしたものであって、本当は昌子が自己の資金で自ら株式売買を行い、利益を挙げていたものであるからその売買益は昌子に帰属すると主張し、証人小林昌子もこれに符合するかのような供述をしている。しかしながら、被告人は、昭和五四年八月三日本件について国税局の査察調査が始まったことを旅先で知るや、病院に入院し、同月八日入院先で第一回目の取調べを受けたが、このとき株式売買についてその大部分を妻が独自に売買したことを供述し、ただその実質については被告人の財産の運用・管理に任せていたものであると供述していたが、次第に捜査の進展につれ、取引口座の設定・利用・証券会社への発注・連絡・代金等の受渡など個々の取引への具体的関与状況や昌子への具体的指示などについても供述するようになり、これらの供述の変化の過程を検討し、証人昌子の証言、その他の関係証拠を併せると、被告人が本件株式売買の具体的取引に関与したとか、昌子が行った取引はすべて被告人の具体的指示等によって行ったかのように供述した部分は、昌子をかばうため被告人において実際と異る供述をしたものと認められないではないが、被告人の供述中、少なくとも本件株式の売買が被告人の資産を昌子において運用して行ったものである旨の供述は真実を述べたものと認めることができる。以上のほか、本件株式取引に対する被告人、昌子及び関係証券会社担当者の認識、昭和五四年以降においても本件株式による配当所得を被告人の所得として申告していること等の事実を併せると、本件株式の具体的取引が専ら昌子によって実行され、同女の研究と適確な判断によって売買益が生じたものであるといっても、右昌子の株式取引は被告人の了解のもとに被告人の資金を運用して被告人の計算において売買益を挙げていたものというべきであるから、その売買益は被告人に帰属するものと認められる。

二  ところで弁護人は、本件株式の売買益が被告人に帰属するとしても、被告人が本件確定申告にあたりこれを自己の所得として申告しなかったことについては、虚偽帳簿を作成する等反社会的な不正行為を伴わない単なる過少申告にすぎない。また本件雑所得の一部である青木武之に対する貸付金の受取利息についても、本件当時、後述するとおり、被告人の個人貸付について多額の貸倒があり、その貸倒元本額が右受取利息額をはるかに超過していたところから、受取利息を所得として申告しなかったものであり、受取利息の不申告についても何らの不正行為はなかった旨主張する。

しかしながら、関係証拠によれば、被告人も当公判廷において認めているとおり、雑所得に属する本件株式の売買益及び受取利息についてはもともと申告する意思は全くなく、故意に申告から除外していたものであり(なお、本件株式の取引において、被告人及び昌子以外の名義が無断で使用されており、証人小林昌子は右の点につき被告人に知られないように取引をするために行ったもので、脱税目的で行ったものではない旨供述するが、数名の名義が使用されていることや関係証券担当者の認識状況等によれば、課税要件に該当する取引が行われた場合に備え、これが発覚することを免れるために取引名義を分散したものと認められる。)、また事業所得については一応の申告はしているものの、後記のとおり、被告人の指示により経理担当の坂田が中心となり、帳簿を操作する等して売上の一部除外とこれに見合う公表上の諸経費の圧縮等の脱税工作に及んでいること、所論指摘の貸倒は後述するとおり、そもそも被告人において本件当時貸倒による損金処理ができるものと認識していなかったことはもちろん、客観的に回収不能の状態になかったものであり、これらの事実を総合すると、調査書が本件株式の売買益及び受取利息をことさら申告所得から除外して税を免れた行為が、所得税法二三八条一項所定の「偽りその他不正の行為」に該当することは明らかである。なお、弁護人は、本件株式の売買益及び受取利息を申告しなかったことについて、重加算税がこれらに課せられなかったことは、右不正の行為がなかったことの証左である旨主張するが、国税通則法七八条の重加算税は国税局によって行われる行政処分であって、刑事処罰としてのほ脱犯とはその要件を異にするものであり、所論はその前提において失当というべきである。

三  また弁護人は、被告人は本件株式の譲渡益についてほ脱の故意がなかった旨主張するので検討する。

関係証拠によれば、被告人は前認定のとおり、昌子の健康や株式取引により思わぬ損失を被ることを心配し、同女がさろん松の収入を運用して株式の売買を行うことに一応の反対を表明しつつも、なお現実の取引については、これに協力しあるいは同女から売買益の一部を受領するなどして了解していたものであり、また被告人は昭和五〇年ころには昌子が大量の株式を取得し、運用資金として少なくとも数千万円程度を動かしながらほぼ順調に利益を挙げ、その利益が相当高額になっていたことを認識していたこと、被告人は昭和四三、四年ころ被告人の取引銀行に、本件と同様の株式の売買益について査察が入った際、塩崎税理士から浅草共栄納税貯蓄組合(以下「組合」という。)の担当者を通じて、株式の売買益に対する課税要件を知らされ、株式の売買益についても課税されることを承知していたものであるが、前記のとおり株式の売買益等雑所得については全く申告の意思がなかったことからこれを除外したものであって、これらの事実によれば、被告人において本件株式の売買益についてほ脱の故意が存したことは明らかである。弁護人は、昌子が本件株式の取引により昭和五一年に二六二万円余、同五二年に一二三九万円余の損失を被っていたのであるから、被告人は昭和五三年に本件のような売買益が生じていたことは知らなかった旨主張するが、被告人は収税官吏に対する各質問てん末書及び検察官に対する各供述調書において、本件株式の具体的な取引状況等についてかなり詳細に供述しているところ、関係証拠によれば、前述したとおり、本件株式の発注、受渡、銘柄の選定等は昌子が行っていたものであって、被告人においてこれを行った旨自供している部分は昌子が本件株式の取引に関与したことにより同女が処罰されることを危惧して述べたもので真実でないと認められるとしても、昌子の各関係証券会社担当者に対する取引状況、被告人の右昌子の株式取引に対する関与の状況等に照らし、昭和五三年の本件株式取引において少くとも数千万円を越える売買益が生じていたことを認識していたとの供述部分は十分信用できるものであり、所論は採用できない。

第二貸倒について。

一  大沢、福田、橋本に対する貸付

弁護人は、(一)被告人は大沢弘に対し、同人の不動産業の開業及び運転資金として昭和五八年八月三日までに合計一〇〇〇万円、同月三日五〇〇万円、同月三一日五〇〇万円、同年一〇月六日五〇〇万円、昭和五〇年一二月八日ころより同五一年末ころまで合計五〇〇万円をそれぞれ貸付けたところ、同人は同五二年二月頃より被告人の前に姿を見せなくなり、同年六月二五日には川崎市役所における同人の住民登録が職権により抹消され、そのまま行方不明となったが、その後も被告人は大藤らをして右大沢の行方を調査させるとともに、同人の死亡した母親の所有にかかる借地権付の建物を処分して右貸付金の回収を図るべく柴田政雄弁護士を通じて交渉したものの、右母親の建物については地代不払と相続人不明のため昭和五三年中に断念せざるを得なかったものであり、また昭和五二年一〇月二六日には、前記大沢に対する貸付のうち同人が同四八年一〇月六日貸付分五〇〇万円の担保として差入れていた昭栄工事振出の約束手形及び小切手上の債務を引受けた野田昭を被告とする訴訟を提起し、同五三年三月三〇日に勝訴判決を得たが、右野田において資産がなく回収できなかったものであって、前記被告人の大沢に対する各貸付は、結局回収を担当していた大藤栄治が回収を続けることを嫌がり、被告人がこれを了承した昭和五三年八月の時点をもって回収不能となったものというべきであるから、昭和五三年分の貸倒となる。(二)被告人は福田博忠に対し、昭和四九年ころ四〇〇万円を貸付けたところ、同人は同五〇年末ころ右借金の返済に窮して指をつめ、そのまま所在不明となったものであり、また被告人は橋本勝男に対し、昭和四九年ころ四六〇万円を貸付け、その後一部返済がなされたため貸付残が三七五万円となり、その弁済期が昭和五〇年始めころ到来したものの、返済のないまま不明となったものであるが、被告人は右両名に対する貸付金についても前記大藤を通してその後も回収に努めていたものであって、これらの貸付が回収不能となったのは大藤が回収をやめた前記昭和五三年八月の時点であると主張し、これに対し検察官は、(一)につき、弁護人の主張する大沢に対する貸付金のうち、大都企業株式会社(以下「大都」という。)が昭和五〇年五月金融業を開始する前の二〇〇〇万円(弁護人が昭和四八年一〇月六日に貸付けたと主張する五〇〇万円には大都が金融業開始後の貸付である。)は大沢の住民登録が抹消され、同人が行方不明となって連絡が途絶えた昭和五二年中に回収不能となったものであり、また大都が金融業を開始した後の貸付は大都が大沢に貸付けたものであるから、被告人個人の貸付の問題とする余地がない。また(二)につき、福田に対する貸付は同人が返済に窮して指をつめ、行方不明となった昭和五〇年末ころ、橋本に対する貸付は同人が行方不明となり被告人において積極的に同人の所在を捜すなどしなくなった昭和五〇年ないし同五一年ころそれぞれ回収不能となったと主張するので、右の点につき以下検討を加える。

まず、被告人の大沢に対する貸付金額についてみると、関係証拠によれば、昭和四八年八月三日までに、同日の貸付金五〇〇万円を含む合計一五〇〇万円の貸付がなされた(甲一一七のうち誓約書及び領収書)後、同月三一日被告人から大沢に対し五〇〇万円の貸付がなされ(同一一七のうち受取証。なお同九七によれば、昭和五〇年一〇月三一日被告人と大沢との間に、右一五〇〇万円と五〇〇万円を合せた二〇〇〇万円の貸借があることが確認されている。)更に被告人が大都で金融業を開始した後の同五〇年一二月八日頃より同五一年末頃までの間五〇〇万円の貸付がなされ、また同年一〇月一四日現在において、大都から大沢を通じての野田昭に対する貸付元本残として四九〇万円あること(同一一四)がそれぞれ認められるところ、右貸付金に対する返済関係については証拠上必ずしも明らかではないが、返済がなかったとすれば大沢及び野田に対し右合計二九九〇万円の貸付残が存在したものと認められる。ところで右二九九〇万円の貸付のうち大都から大沢を通じての野田に対する貸付残四九〇万円は後述するとおり、被告人の個人貸付ではなく、大都からの貸付と認められる。なお、被告人から福田及び橋本に対する貸付金の額が所論のとおりであることは関係証拠上明らかである。

そこで次に、右各貸付金が本件昭和五三年中に貸倒になったかどうかを審究する。

関係証拠によれば、大沢は昭和五二年三月ころより被告人のところに姿を現わさなくなり、同年六月一五日には川崎市役所における同人の住民登録が職権により抹消され、行方不明となったが、被告人はその後も大藤らを通じて大沢の行方を調査させる一方、大沢から貸付の際に受領していた同人の死亡した母親の借地権付建物の権利証を利用して貸付金を回収するため柴田政雄弁護士を通じて交渉させたが、母親に地代不払等があって回収することができなかったものであり、また野田昭に対する貸付残四九〇万円については、担保として差入れられた昭栄工事振出の約束手形及び小切手上の債務を引受けた野田昭を被告人とし、昭和五二年一〇月二六日訴訟を提起し、翌五三年三月三〇日勝訴判決を得たものの、野田昭において執行すべき資産がなかったこと、他方福田については昭和五〇年末ころ前記被告人からの借金の返済に窮し、指をつめて所在不明となり、また橋本も昭和五〇年から同五一年ころにかけて行方不明となったものであるが、被告人は右大沢、福田、橋本らが行方不明となった後も引きつづき大藤らを回収担当者として行方を調査させ、貸付金の回収にあたらせていたことが認められる。そして以上のほか、右のような被告人の知人、友人等に対する貸付について、借主が行方不明となった後にも居所を探しあて、あるいは借主が現われて貸付の回収をした事例が何件があったこと、右大沢ら三名のほか、後記蛭田稲穂ら五名を含む回収が困難とみられた貸付先に対する貸付金について、経理担当の坂田が被告人に相談して経理上貸倒として損金処理を考慮し始めたのは、後述するとおり、昭和五四年八月ころになってからのことであること等を併せると、被告人は右大沢ら三名の者がそれぞれ行方不明となった後も、貸付金回収の担当者をきめ、弁護士にも依頼して具体的に回収をはかっていたことが明らかであって、右行方不明となった各時点においてはいまだ各貸付金の回収が不可能な状態になっていたものとは認められないので、前記検察官の主張は採用することができない。

ところで弁護人は、右大沢らの回収困難な貸付先に対する貸倒の時期は、いずれも前記大藤が回収の仕事をやめた昭和五三年八月であると主張するが、証人大藤栄治は同人が被告人から依頼された貸付金の回収の仕事をやめた主な理由として、弟に任せていた小料理屋の仕事が忙しくなく、これに従事することになったためである旨供述し、関係証拠によればその後も大都の従業員小松本、坂田らが大藤から右大沢らに対する貸付金の管理及び回収の仕事を引きつぎこれにあたっていること、その後昭和五四年八月ころに至り、台東区役所税務課に一二年間、その後東京都の主税局に五年間勤務して査察調査の経験もあって、税務の実務に通暁していたと認められる坂田稔が、右貸付金の回収が思うようにならなかったことから、被告人にそろそろ本件各貸倒処理をするよう提案していること(証人坂田稔は、右貸倒処理の検討は大都の貸付金に関するものであって、被告人の個人貸付金についてではない旨供述するが、当時大都の経営状態は赤字であって、貸倒処理の必要がなかったことは明らかである。)、被告人自身当公判廷において、右大藤が貸付金の回収をやめた時点で必ずしも回収を断念していたわけではない旨供述していること等が認められ、これらの事実を総合すると、被告人は、弁護人の主張するように昭和五三年中に前記大沢らに対する貸付金の回収を断念したことはないと認むべきであり、これら貸付金がいずれも被告人の友人に対する貸付金であって、その性質上弁済期や利息等の拘束は厳格なものではなかったことにも徴すると、右のように債務者が一時所在不明になったからといって、直ちに債権が回収不能の状態になり、全く無価値なものとなったとはとうてい認められない。右弁護人の主張も採用できない。

二  蛭田、中井、菱山、武副に対する各貸付

弁護人は、蛭田稲穂に対し昭和五一年ころ二八三万円、中井稔に対し同年一二月一九日五〇万円をそれぞれ貸付け、また湯浅貞男に対し昭和五一年ころから数回にわたり貸付けを行い、同五二年ころには貸付元本帳が三三七万三〇〇〇円となり、更に菱山一実に対し昭和四九年ころ合計七〇〇万円を貸付け、そのうち三〇〇万円については同五一年五月ころ武副信孝が債務を引受けて一部を支払い、本件当時二六〇万円の元本残が存在したものであるが、被告人は、前記坂田、大藤らを通じて右各貸付金の回収に努めていたものの、前記のとおり大藤が昭和五三年八月右各貸付金の回収の仕事をやめたことにより回収不能となったものであって、右各貸付金は昭和五三年分の貸倒損になると主張する。

しかしながら、関係証拠によれば、右各貸付及び前記大都が金融業を開始した後に行われた大沢を通じての野田昭に対する貸付五〇〇万円はいずれも被告人個人からの貸付けではなく、被告人のワンマン会社である大都からの貸付と認められる。すなわち中井(甲一〇八)、湯浅(同一〇九)、武副(符一一)に対する所論の各貸付はいずれも大都が金融業を開始した後の貸付であり、その際作成された金銭消費貸借契約書はいずれも大都から右各貸付先に対する貸付とされているうえ、中井については大都宛の念書等(甲一〇六、一〇七)が作成され、また湯浅については債権者を大都する債務弁済契約公正証書(同一〇九)が作成され、同公正証書に基づき千葉地方裁判所松戸支部に対し強制執行の申立がなされ、武副についても同人の妻から大都宛の念書(同一〇八)が作成されていること、また蛭田に対する貸付は、同人が昭和五一年一〇月八日右中井の紹介で大都を訪れ、同社に対し公陽産業株式会社振出にかかる手形の割引を依頼し、大都の大藤が銀行を通じて信用調査をしたうえ割引をしたものであり(同一〇五)、その後蛭田が割引を依頼した蛭田製作所振出の約束手形の裏書人であった中井稔、同文子が大都宛に支払猶予を求めていること(同一〇六)、菱山に対する貸付に関し作成された借用証二通、借入返済計画書及び念書(同九九)、金銭消費貸借及び抵当権設定契約書において債権者はいずれも大都とされ、更に菱山に対する不動産に対し債権者を大都とする抵当権が設定されていること、また前記野田昭に対する貸付元本残四九〇万円については、前述したとおり担保として有限会社昭栄工事名義の手形及び小切手(額面合計五〇〇万円)が振出されているが、大都が原告となり、右手形及び小切手の支払につき債務を引き受けた野田昭を被告とする訴訟が提起されていること等が認められ、以上によれば前記各貸付はいずれも特段の事情がない限り大都からの貸付と認めるべきである。被告人、証人坂田稔、同大藤栄治は、当公判廷において、大都の貸付は原則として一〇万円を限度とした小口の貸付であって、帳簿に記載していたが、右貸付は右限度額を超え、大都の帳簿にも記載されていない。また右貸付について債務者が大都名義の書類が作成されているのは、右各貸付先が被告人の親しい友人、知人であり、貸主を被告人個人の名義ではなく大都名義にした方が回収しやすいと判断したためである等の事実を挙げて被告人の個人貸付である旨供述しているが、関係証拠によれば、大都の貸付が一〇万円を限度とする小口の貸付であったといっても、それは一応のものであって、現実に大都からの貸付の中に右限度額をこえるものも存在していたこと、昭和五〇年五月ころより大都が金融業を開始するとともに、被告人の指示によりそれまでなされた被告人の個人貸付の管理を大都で行うようになり、責任者であった坂田をはじめとする大都の従業員が右貸付業務に関与するようになったこと、所論の各貸付当時、大都には競争馬関係で被告人から多額の借入金があり、更に被告人からの借入をおこせば被告人の資産、所得を公表することになって、税金対策上まずいことになるため、帳簿上大都の借入を起こさず、従って、右蛭田らに対する貸付も大都の簿外貸付として帳簿に記載しなかったものの、大都名義で契約書を作成したり、抵当権を設定するなど個々具体的な契約についてはいずれも帳簿記載の有無にかかわらず大都からの貸付として実行されていること、他方大都が金融業を開始した後も被告人個人名義で貸付けられたものがあり、これらは貸付に際し被告人から大都の従業員に連絡されていないが、所論の各貸付はすべて大都の従業員に連絡され、従業員によって回収手続がとられていること、坂田は査察段階において、大都の貸付でありながら、被告人の指示により帳簿にのせなかったものがあり、返済があったときには仮名預金に入金したものがあることを明確に供述しているものであって、これらの事実に照らし前記被告人らの公判供述はとうてい措信できないものであり、所論の各貸付は被告人の個人貸付ではなく、大都の簿外貸付と認められる。なお、右各貸付が昭和五三年中に回収不能の状態になかったことは前述したとおりである。

所論はいずれにしても採用できない。

第三ドミール千駄木の簿外家賃について。

弁護人は、花電車の元幹部従業員青木良晴所有にかかるドミール千駄木マンション(以下「本件マンション」という。)を、本件当時被告人において、花電車の従業員の寮として使用し、その家賃代りに、右青木がマンション購入代金として三菱信託銀行から借受けた三五〇万円の月賦弁済金四万円を月々支払っていたが、右四万円の支払はその実体からして営業費用として損金になる。被告人が右マンションを取得したとすれば事業用不動産の取得になり、減価償却費を損金として計上すべきである旨主張する。

そこで検討すると、関係証拠によれば、青木は花電車の幹部従業員として働いていたものであるが、昭和四五年一〇月六日被告人の紹介で石原建設より本件マンションを購入し、その代金支払に充てるため、三五〇万円を三菱信託銀行から借受け、元利合計を一五年間(同月六日より昭和六〇年一〇月六日まで)の月賦により弁済することを約したが、同人がまもなく花電車の金を使い込み、行方不明になったことから、被告人は右マンションを花電車の従業員に無償で使用させるとともに、右ロピンを花電車の帳簿上家賃の支払として記帳したうえ右銀行に返済していたものであって、昭和五三年分として月額元利を含めて四万円宛返済していたことが認められる。ところで検察官は右マンションは登記名義は青木のままであるが実質的には被告人が取得したものであり、銀行に対するローンの支払は被告人の不動産取得に伴う支払であり、家賃として経費に計上されるべきではないと主張するが、関係証拠によれば、本件マンションは被告人が花電車の幹部従業員であった青木のために購入してやったものであり、契約書はもとより、登記簿上の名義も青木に移転登記され現在に至っていること、右マンションには昭和五七年一〇月一四日付で被告人の滞納税徴収のために差押をうけているが、それに先立ち、同マンションが青木の所有であることを前提とする同人作成の国税局宛の念書及び担保提供書が提出されていること等の事実が認められ、これらによると本件マンションは青木が購入したものであって、その所有権を取得したものといわざるを得ない。

ところで、弁護人は右月額四万円の支払につき前記のとおり営業費用として損金になると主張するが、関係証拠によれば、被告人は前記のとおり、本件当時右マンションを花電車の従業員に無償で使用させるとともに、青木が支払うべき銀行に対するローンを、同人が行方不明となったことから、青木に替って支払をしていたものであり、右四万円の支払や本件マンションの取り扱いについて被告人と青木との間に最終的な記話合いがなされておらず、四万円の支払について被告人の経理処理上当初から現在に至るまで経費として計上されていないこと等の事実が認められ、右によれば、所論四万円の支払は仮勘定ないし立替金と認めるのが相当である。

以上の次第で、結局所論は採用できない。

第四簿外給与等について。

一  大藤につき

弁護人は、被告人は前記大藤に対し、同人が昭和五二年一二月で大都を退職した後も、同五三年一月から同年八月までの間、被告人の個人貸付の回収業務並びに花電車の雑用に対する対価として月額二五万円を支払ったと主張し、被告人及び証人大藤栄治は当公判廷において右主張に沿う供述をしている。

そこで検討すると、関係証拠によれば、被告人が大藤に対し所論の報酬として月額一五万円を支払っていたことについては、被告人及び証人大藤栄治が当公判廷において初めて供述したものであって、右供述を裏付ける客観的な資料はなく、関係証拠に照らし、右被告人らの公判供述はにわかに措信できないものがある。また大藤は昭和五〇年一〇月、それまで働いていたさろん松から、大都の貸金業の開始にともなって同社に配置転換され、以後同五二年一二月末ころまで大都の従業員として所論の貸付金の回収並びに花電車の雑用を含む同社の業務に従事し、同社から給与を受けていたものであって、被告人個人から給与あるいは報酬を受けていた事実はない。しかるに証人大藤栄治が所論の昭和五三年二月以降も被告人から頼まれ行っていたと述べる仕事の内容は右大都在職中のものと全く変りがなく、その殆んどが大都の貸付先に対する貸金の回収業務と認められる。そして、被告人は収税官吏に対する昭和五五年五月一四日付質問てん末書(乙5)において、大藤が昭和五二年末に大都を退社したこと。それまでは被告人のポケットマネーから月額一〇万円を支払っていたことを供述しているが、同五三年に入ってからも同人に右同様の趣旨の金を支払ったことは一切供述していなかったものである。以上の次第であって、被告人が大藤に対し所論の一五万円を支払っていたことについては疑問があり、仮に右一五万円の支払があったとしても、それは大都の業務に従事したことに対する報酬というべきである。

所論は採用できない。

二  坂田、池田、藤井につき

弁護人は、被告人は査察段階において、本件当時給与として月額、坂田稔に対し大都から三〇万円、池田耕造に対し花電車から二〇万円、藤井国に対しさろん松あるいは花電車から三五万円をそれぞれ支払っていた旨供述しているが、右供述には思い違いがあり、実際は、右坂田に対しては大都からの三〇万円のほかに花電車から月額一五万円の給与及び三〇万円の賞与を、右池田に対しては花電車から月額二五万円の給与を支払っていたものであり、また藤井に対しては昭和五三年一月から同年四月まではさろん松から月額三五万円の給与を支払ったが、以後同人が花電車の仕事をするようになったことから、花電車から、同年五月から同年九月まで月額五五万円、同年一〇月以降は月額五〇万円の給与を支払ったと主張する。

しかしながら、被告人の当公判廷における供述、収税官吏に対する昭和五五年二月一六日付質問てん末書(乙4)等によれば、被告人は査察段階において、単に自己の記憶のみによって池田及び藤井を含む各幹部従業員の給与額を述べたものではなく、本件当時作成された関係資料に基づいて供述しているものであって、その供述の信用性は相当高いものと認められるのであり、これによれば、被告人は池田に対し昭和五三年から従前の一五万円を増額して月額三〇万円を、藤井に対し月額三五万円支払ったというのである。これに対し被告人は、当公判廷において、右査察段階の供述を変更し、一応所論に沿う供述をしている(藤井国に対しては本件当時月額四〇万円であったとも供述している。)が、供述を変更するに至った経緯について何ら合理的な説明をしていない。また右坂田、池田、藤井は当公判廷において、本件当時の各自の給与額につき右被告人の公判供述に符合する供述をしているものであるが、いずれも被告人の許で働いてきた元幹部従業員であり、これらの供述を裏付ける客観的な資料はなく、関係証拠に照らし右被告人らの公判供述にはにわかに措信できないものがある。もっとも、証人藤井国は、給与台帳(弁九三)の記載から、同人が昭和五三年一〇月から久米支店長の代理として花電車の業務に従事するようになったので、被告人から支給される給与額が同支店長は同額の五〇万円に昇給した旨述べており、その裏付けがあるかのようであるが、同証人も認めているとおり、右支店長代理の実体は久米支店長にかわって支店長の地位に就任することになったために、本件当時は支店長見習として働いていたものであって、藤井が支店長に就任したのは翌五四年一月であることを考えると、右給与台帳の記載や同証人の証言から同人の給与が右一〇月から五〇万円に上ったとすることには疑問がある。そればかりでなく、関係証拠によれば、藤井はもともとさろん松の従業員として働いており、昭和五三年に花電車に移ったものであるが、当時花電車においては藤井らの幹部従業員に対する給与及び被告人への支払は、平従業員の給与に名目上上乗せした分から支払われていたものであり、その総額は指名料明細及び現金及び別途会計合計額を記載した帳簿等により明らかであるところ、右によれば昭和五三年八月に右上乗せ分が総額で三五万円増加しており、その後同年末までその額に変更はなかったものであって、右の増加分が花電車における藤井に対する給与分であったことは明らかであり(坂田稔の収税官吏に対する昭和五四年九月四日付質問てん末書参照)、従って、前記被告人及び証人藤井国の公判供述はとうてい措信できないものである。また坂田については、同人はもともと大都の責任者として同社に籍を置き、同社から給与及び賞与の支給を受けていたものであって、同人は収税官吏に対する質問てん末書において、花電車幹部従業員らの簿外給与について質問を受けた際、久米店長、神原耕造、青木武之らに対する簿外給与の存在を供述しながら、自己において被告人から簿外で給与を受取ったことを全く供述していないものである。同人は花電車の経理を担当し、被告人の確定申告の仕事を手伝っていたものであり、その経歴に徴してもかなり税務にも精通していたことが窮われるから、同人が査察段階で自己に対する簿外給与の存在を供述していないことは、右事実の不存在を窮わせるに十分である。仮に同人が被告人から所論の金額を受領していたとしても、それは大都から支給される簿外給与であるか又は大都における交通費その他の経費と認むべきものである。坂田自身も当公判廷において、大都の所定の給与のほか、被告人から受領した月額一五万円は自己の使用する自動車のガソリン代や修理・維持費として受領していたものと供述している。また池田は、当公判廷において、昭和五二年前後ころ、花電車のほかに、ダイヤモンド、レストラン松の仕事を手伝うようになったことから、従前の給与である一五万円ないし二〇万円から二五万円に増額になったと述べているが、前述したとおり、池田ら幹部従業員に対する毎月の支給総額が関係証拠により確定されるところ、そのうち前記藤井及び池田を除いた者の給与額については被告人も争っていないので、本件当時の池田に対する給与額が二〇万円であったことも右証拠により明らかである(甲三七参照)。仮りに、同人が月額二五万円の給与を受取っていたとしても、増額分は被告人個人の事業とは関係のないダイヤモンド及びレストラン松の仕事に対する報酬分である。

所論はいずれも採用できない。

第五昌子に対する給与ないし報酬について。

弁護人は、昌子がさろん松の経営者でないとすれば、同女のさろん松における技術及び労働に対する給与ないし報酬として年間一二〇〇万円から二四〇〇万円を認めるべきであると主張する。しかしながら、所論のように給与ないし報酬として認容されるためには、昌子に対する給与ないし報酬支払債務が確定するか、現実に給与ないし報酬として支払がなされたことが必要であるところ、本件において昌子に対し給与ないし報酬としての債務が確定し、あるいは給与ないし報酬が実際に支払われたことは被告人及び昌子も認めているところであり、所論はその前提において失当である。所論は採用の限りでない。

第六接待交際費、福利厚生費等について。

弁護人は、本件において昌子が社交員及び従業員を連れて行った飲食や旅行に支出した接待交際費、旅費交通費、通信費、福利厚生費等が一切認められていないが、大ママとして現実に活躍していた昌子についてこれらの費用がかからなかったというのは経験則上あり得ないことであり、本件当時右諸経費として少くとも年間五〇〇万円程度を認めるべきであると主張する。

しかしながら、昌子に関し所論の諸経費が支出されたことを認めるに足る証拠が存在しないばかりでなく、本件昭和五三年分において検察官の主張する接待交際費が二六八五万九六八〇円、旅費交通費が二五三万八六五円、通信費が八六万四六四〇円、福利厚生費が一三三三万五一三四円であるところ、被告人の昭和五四年以後のさろん松を含めた右各費用の申告状況をみると、関係証拠によれば、同五四年分が接待交際費一二三五万四六五円、旅費交通費三六六万四三三円、通信費九一万二三二〇円、福利厚生費七七六万七九八三円であり、同五五年分が接待交際費一六五九万六七九一円、旅費交通費三二二万九三四〇円、通信費一二八万六一〇四円、福利厚生費六一一万九七六二円であり、同五六年分(さろん松のみ)が接待交際費四二八万四三七一円、旅費交通費五三万六六八〇円、通信費四七万三〇七〇円、福利厚生費一五八万二七六二円であり、昭和五七年分(さろん松のみ)が接待交際費三六三万八七一一円、旅費交通費九二万五四六〇円、通信費二五万四二一〇円、福利厚生費二一七万七九七〇円であり、また昭和五三年分において検察官が確定した被告人のほ脱事業所得額が一五七万八七円にすぎないこと等を併せ考えると、前記認容にかかる金額の経費のほかに、所論主張の五〇〇万円もの簿外経費が支出されたものとはとうてい認められない。所論は採用できない。

第七事業所得等に関するほ脱の故意について。

弁護人は、被告人はさろん松の経営については全く関知せず、また花電車については赤字決算であることを知りながら世間体等から前年並に申告するよう坂田に指示し黒字で申告していたものであるから、本件申告にかかる事業所得を構成する個々の損益の会計事実については概括的にも認識がなく、被告人には本件事業所得についてほ脱の故意はなかったものであると主張する。

しかしながら、関係証拠によれば、被告人は同業者が実際の所得額どおりの申告をしていないことを知り、昭和四三年坂田を採用する前の昌子が経理を担当していたころから脱税を企て、地元浅草における同業者との釣り合いを考慮しながら、実際の所得額よりも少ない金額で申告するようになったものであり、右昭和四三年坂田を採用してからは専ら同人に対し申告所得金額を景気の状況、現金の在り高等を考え、前年並か多少アップした金額になるよう指示して適当に決算書、申告書等を作成させていたものであって、昭和五三年分の本件決算書及び申告においても、花電車については坂田が右被告人の具体的な指示に従って売上金の一部やホステスの遅刻代等を除外するとともに、従業員の給与、芸能費、交際費等の諸経費を圧縮した収支計算書を作成し、またさろん松については昌子が被告人の意向をうけて従業員の給与等を圧縮した収支計算書を作成して坂田に渡し、同人においてこれを基に右花電車と同様の操作をして利益調整をしたうえ、両店の決算書及び申告書の下書を作成し、この下書に基づき組合の担当者に作成させた決算書及び申告書を、被告人が坂田から説明をうけながら確認したうえ申告したものであって被告人において本件事業所得につきほ脱の故意が存したことは明らかである。所論はとうてい採用できない。

なお、弁護人は、本件扶養親族を架空名義で申告したことにつき、被告人は何ら関知しておらず、組合の担当者である井上弌郎が所轄税務署において黙認したこともあって、独断で架空名義を作りあげて虚偽の申告をしたものであり、被告人にはほ脱の認識がなかったと主張する。しかしながら、関係証拠によれば、右井上は当公判廷において、昭和五三年分より前の年の申告において一存で島田優子の架空名義を使って扶養控除の申告書を作成したが、そのことは坂田に説明し被告人においても承知している筈であると供述しているばかりでなく、架空名義を使用しての扶養控除の申請は昭和四八年ころからすでに行われていたものであって、昭和四八年分から同五〇年分につき、被告人の妹として島田高子、島田優子、姪として高井富子、同五〇年分から同五三年分につきいずれも妹として島田優子とすべて実在しない氏名を記入し申告していることが認められ、右のほか前記確定申告の状況等を併せ考えると、被告人は昭和五三年分の扶養控除の申告が虚偽のものであることを十分承知していたものと認められる。所論は採用できない。

なお、被告人は弁護人提出の東京料理飲食環衛業国民健康保険組合作成の国民健康保険料納付証明書(弁九二)により、昭和五三年において健康保険料として二万一〇〇〇円を支払ったことが認められるのでこれを総所得金額から控除した。

(法令の適用)

一  罰条

行為時において昭和五六年法律第五四号による改正前の所得税法二三八条一、二項、裁判時において改正後の所得税法二三八条一、二項(刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑による。)

二  刑種の選択

懲役刑及び罰金刑の併科

三  労役場留置

刑法一八条

四  刑の執行猶予

刑法二五条一項

五  訴訟費用の負担

刑事訴訟法一八一条一項本文

(裁判長裁判官 小林祐康 裁判官 羽渕清司 裁判官 石山容示)

別紙(一)

修正損益計算書

<省略>

別紙(二)

税額計算書

<省略>

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